可能性を開花させたいなら、子どものことは子どもに聴く。
子どもは神様からの預かりものだと思っている。
どんな個性や可能性をもってうまれてくるかは、血のつながった親子でも自分とはだいぶ違う人間だっていうのが、だいぶ育ててみるとよくわかるから。似てるところもあるけれど、その子の個性や本質はかなり大きくならないとわからない。
どんな子かよくわからない中で、最初は必死で子育てする。
自分が育ててもらったように、育児書のように…などなど、
私たちはその人なりの知恵をもって子育てしてながら「子どもの育ち」に笑ったり泣いたりする。
作物を育てることは、子育て似てるな…って、近頃思う。
親は神様からどんなタネをもらったのかわからない。。
だから自分なりに大事に育ててみる。
とりあえず他の人と同じような一般的な育て方をしていると
多くのタネはそれなりに育って美味しい作物をつけたりする。
何となくうまくいくのは、畑の耕し方、水のあげ方の良しあしよりも、
タネの個性がその環境にあってるか…の方が重要だと思う。
責任を放棄するわけではないが、親が作った環境や用意できる肥料に適合できるタネであればスクスク元気に育つ。
そんな丈夫なタネや、環境に左右されずらいタネは、市民農園一年生でもうまく育てることができる。
少し配慮の必要なタネであっても、
畑慣れした人や農家の人などは、作物との会話がうまかったりよく観察してるから、
どのタイミングで何をすればいいのか上手にキャッチするから、どんなタネが来てもそれなりにうまく育てられる。
でも経験値の低い育て手には観察や作物との会話は難しく、日当たりや風通しの悪さを嘆くしかない。そして作物は日寝たものになっていく。
優れた農家にだって育てるのが難しいタネだってある。
みたこともない、誰も育てたことのないような特別なタネや、
とてもとても繊細な配慮が必要なタネは、ベテランの農家だって環境調整が難しい。
さらに専門的な知識を有するスペシャリストの手助けが必要なタネだってたくさんあるだろう。
子育ても同じだ。
もし、自分の子育てがうまくいっていない、
子どもに困った…を多々感じてしまうのは、
親が悪いからこうなった…ではないのだと。
自分ができる最善をつくした環境は、その子にはあわなかった。
特別な配慮が必要なタネに、別のタネの育て方をしている。
そんなミスマッチが原因でうまく育っていないように見えるのかもしれない。
だけど、私たちがうまく子育てできないのは当たり前なのだ。
経験がない、または、少ないのだから、うまくいかない方が当たり前だ。
でも、親だから…、親なの…と、うまくいっていないからといって自分を責める。
でも、自分を責めるのはやめようよ。
だって、育て手と子どもの求めているものがズレてるだけだから。
ほんとに私はズレてるだけだから!って思うの。
親が悪いからこうなった…わけではない。
その子が悪いから、そうなったわけでもない。
私たちは最善を尽くしている。
子どもも最善を尽くして、自分を咲かせようとしているのだから。
なので。
親にできることは、よく観察すること、
子どもの声をしっかり受け取ることだ。
「子どものことは子どもに聴く」ってこと。
子ども達は、ことば以外に、身体で多くを語ってくれている。
目で、表情で、姿勢で、呼吸で…と、
子どもが全身から発する非言語にも耳を傾けることだ。
私たちは、子どものことはその子どもから教わる必要があるのだ。
そして、私たちはそのメッセージを受け取ったうえで
その子にとってのうまくいく条件を探すことなのだと思う。
どんなタネを預かったのかは花が咲くまでのお楽しみだね。

